「原発と大津波 警告を葬った人々」(添田孝史著、岩波新書)
昭和45年、東京電力福島第1原子力発電所1号機の設置許可申請から4年後、東北電力は宮城県の女川原発設置許可を申請した。東北電力は社内に「海岸施設研究委員会」を設置し、専門家を集めた。この中で発言力を強めたのが、元副社長の平井弥之助氏だった。平井氏の実家は宮城県岩沼市にあり、海岸線から7キロ離れた神社には大津波が押し寄せたという言い伝えがあった。真摯な技術者だった平井氏は、「平安時代に起きた貞観津波に配慮せよ」と主張し続けた。最先端の地震学や津波研究者の見解より、幼いときから聞かされてきた地元の言い伝えを優先したのだった。専門家の結論は、女川を襲う津波の最大高さは3メートルというものだったが、明治三陸地震の時、女川から37キロ北で高さ14、3メートルの津波が押し寄せたことに平井氏は着目した。平井氏はこの14,3メートルにさらに0.5メートルを加えて14、8メートルの高台に原発を設置するよう、強く主張した。「法律による規程・基準を超えて、自然に対する畏れを忘れず自分の判断で技術者としての結果責任を果たすように」と平井氏は繰り返し部下たちを指導してきた。その平井氏の主張に、会社は反論することはなかった。東北電力女川原発1号機は、こうして14,8メートルの高台に設置することになり、海水を原子炉に運ぶための海水ポンプも同じ高さに設置された。それから41年後、東日本大震災による津波が女川を襲った。津波は13メートルだった。僅かな浸水被害しか受けなかった女川原発の発電機は動き続け、まもなく原子炉は無事に冷温停止となった。
だが、ほぼ同じ高さの津波に襲われた東電福島第1原発は壊滅した。13メートルの津波より3メートルも低い敷地に作られた建屋。驚いたことにそれよりさらに7メートル下に設置されていた冷却用の海水ポンプ。襲いかかった大津波はポンプを呑み込み、破壊した後、タービン建屋の脆弱なシャッターを打ち破った。何トンもの海水が非常用階段を滝のように流れ落ち、地下一階の発電機と分電盤を呑み込んだ。
著者は、大阪大学大学院で工学を学んだ後、朝日新聞社で科学記者をしていた。若き著者は、当時の日本の科学技術を盲信していた。平成6年、米国ノースリッジで起きた地震で高速道路が倒れた時、日本の専門家は「あんな事故は日本では決して起きない」と語り、著者は素直に頷いた。だが、わずか1年後、阪神淡路大地震で日本の誇る高速道路は倒壊してしまったのだった。専門家は口々に言い訳を重ねた。著者は惨憺たる被害現場を歩きながら、「日本の原発も危ないのではないか」と直感した。専門家の自信が結果につながらない事を初めて経験したからだった。震災災害の危険性に目覚めた著者は、様々な専門家に会い、取材を進めていくが、東日本大震災と福島原発事故が著者にさらなる衝撃を与える。著者は迷わず退社し、フリーライターとして福島原発事故に至る過程の検証に全力を傾注してきた。
明治11年、「工学会」として発足した日本の土木学会は、3万8千名の会員を擁する最大の学会だ。土木学会には30の調査研究委員会があり、その一つに原子力土木学会がある。その下に津波評価部会が平成11年に設置された。土木学会が津波想定方法をまとめたのは平成14年だった。当時の会長は東電元原子力本部副本部長。10名から成る津波評価部会幹事団のうち、東電社員が2名、東電子会社社員が1名、3人が電力中央研究所所員だった。電力中央研究所は、研究費用の90%を電力会社が出資している。
津波想定方法策定にあたって、30名の委員、幹事が集められた。電力会社から13名、東電子会社から1名、電力中央研究所から3名が加わった。ここで使われた費用の全額を電力会社が負担した。
かれらが最初に直面したのが、平成10年に策定された「七省庁の手引き」だった。国土庁、農水省、水産庁、運輸省、気象庁、建設省、消防庁、の津波被害に関係した省庁が、相次ぐ津波被害の大きさに対応して、新たな津波想定方法をまとめたものだった。これは先見性のある良心的なもので、「常に安全側の発想から対象津波を選定することが望ましい」と明記された。これには東大名誉教授、萩原尊禮(たかひら)氏による解析が使われた。その結果、福島沿岸には最大で13,6メートルの津波が押し寄せると判断した。だが、問題は精度だった。萩原教授は、「2倍の誤差」があると明記した。
日本列島に並ぶ原発の敷地に、この「七省庁の手引き」を当てはめると、福島第1原発が最も津波に弱いことが判明した。メルトダウン事故から13年前、この極めて妥当な結果がまとめられたのだった。だが、東電にとっては見過ごすことのできない結果になった。土木学会で問題にされたのは誤差だった。2倍の誤差を伴う予測をそのまま津波対策に取り入れると莫大な費用がかかる。東電を中心とした土木学会の会議では、「誤差1倍」を基準に津波想定を行うことになった。その結果、福島第1原発を襲う津波の想定高さは、5.7メートルとなった。策定作業の前には5.5メートルとされていたので、東電はわずか20cmだけ施設を嵩上げした。
平成7年に日本政府内に設置された「地震調査研究推進本部」、通称「地震本部」にも問題があった。大規模災害を危惧した政府は平成16年、内閣府に「中央防災会議」を設置した。東電は地震の専門家に講演会を開いてもらい、謝礼7万円を払い続けてきた。その専門家たちが、二つの組織に様々な意見を出していたが、戦時中の海軍と陸軍のようにこの二つの組織は反目するようになっていく。
後にできた「中央防災会議」のメンバーは「七省庁の手引き」にある「2倍誤差」の数値を被害想定に使うように主張したが、「地震本部」は専門家の意見を採り入れた結果、福島沿岸を襲う津波だけを除外した。被害の大きな大津波は、岩手県を中心に襲い、仙台から南には到達しないと結論付けたのだった。
その結果、政府の津波対策は、岩手県を中心にして行なわれ、宮城県から茨城県に至る太平洋岸の津波対策はおろそかになった。実際、東日本大震災に伴う津波の被害は、岩手県から南にいくほど大きかった。東電の力によって政府の津波対策から外された福島原発は、見事に壊滅したのだった。
だが、ほぼ同じ高さの津波に襲われた東電福島第1原発は壊滅した。13メートルの津波より3メートルも低い敷地に作られた建屋。驚いたことにそれよりさらに7メートル下に設置されていた冷却用の海水ポンプ。襲いかかった大津波はポンプを呑み込み、破壊した後、タービン建屋の脆弱なシャッターを打ち破った。何トンもの海水が非常用階段を滝のように流れ落ち、地下一階の発電機と分電盤を呑み込んだ。
著者は、大阪大学大学院で工学を学んだ後、朝日新聞社で科学記者をしていた。若き著者は、当時の日本の科学技術を盲信していた。平成6年、米国ノースリッジで起きた地震で高速道路が倒れた時、日本の専門家は「あんな事故は日本では決して起きない」と語り、著者は素直に頷いた。だが、わずか1年後、阪神淡路大地震で日本の誇る高速道路は倒壊してしまったのだった。専門家は口々に言い訳を重ねた。著者は惨憺たる被害現場を歩きながら、「日本の原発も危ないのではないか」と直感した。専門家の自信が結果につながらない事を初めて経験したからだった。震災災害の危険性に目覚めた著者は、様々な専門家に会い、取材を進めていくが、東日本大震災と福島原発事故が著者にさらなる衝撃を与える。著者は迷わず退社し、フリーライターとして福島原発事故に至る過程の検証に全力を傾注してきた。
明治11年、「工学会」として発足した日本の土木学会は、3万8千名の会員を擁する最大の学会だ。土木学会には30の調査研究委員会があり、その一つに原子力土木学会がある。その下に津波評価部会が平成11年に設置された。土木学会が津波想定方法をまとめたのは平成14年だった。当時の会長は東電元原子力本部副本部長。10名から成る津波評価部会幹事団のうち、東電社員が2名、東電子会社社員が1名、3人が電力中央研究所所員だった。電力中央研究所は、研究費用の90%を電力会社が出資している。
津波想定方法策定にあたって、30名の委員、幹事が集められた。電力会社から13名、東電子会社から1名、電力中央研究所から3名が加わった。ここで使われた費用の全額を電力会社が負担した。
かれらが最初に直面したのが、平成10年に策定された「七省庁の手引き」だった。国土庁、農水省、水産庁、運輸省、気象庁、建設省、消防庁、の津波被害に関係した省庁が、相次ぐ津波被害の大きさに対応して、新たな津波想定方法をまとめたものだった。これは先見性のある良心的なもので、「常に安全側の発想から対象津波を選定することが望ましい」と明記された。これには東大名誉教授、萩原尊禮(たかひら)氏による解析が使われた。その結果、福島沿岸には最大で13,6メートルの津波が押し寄せると判断した。だが、問題は精度だった。萩原教授は、「2倍の誤差」があると明記した。
日本列島に並ぶ原発の敷地に、この「七省庁の手引き」を当てはめると、福島第1原発が最も津波に弱いことが判明した。メルトダウン事故から13年前、この極めて妥当な結果がまとめられたのだった。だが、東電にとっては見過ごすことのできない結果になった。土木学会で問題にされたのは誤差だった。2倍の誤差を伴う予測をそのまま津波対策に取り入れると莫大な費用がかかる。東電を中心とした土木学会の会議では、「誤差1倍」を基準に津波想定を行うことになった。その結果、福島第1原発を襲う津波の想定高さは、5.7メートルとなった。策定作業の前には5.5メートルとされていたので、東電はわずか20cmだけ施設を嵩上げした。
平成7年に日本政府内に設置された「地震調査研究推進本部」、通称「地震本部」にも問題があった。大規模災害を危惧した政府は平成16年、内閣府に「中央防災会議」を設置した。東電は地震の専門家に講演会を開いてもらい、謝礼7万円を払い続けてきた。その専門家たちが、二つの組織に様々な意見を出していたが、戦時中の海軍と陸軍のようにこの二つの組織は反目するようになっていく。
後にできた「中央防災会議」のメンバーは「七省庁の手引き」にある「2倍誤差」の数値を被害想定に使うように主張したが、「地震本部」は専門家の意見を採り入れた結果、福島沿岸を襲う津波だけを除外した。被害の大きな大津波は、岩手県を中心に襲い、仙台から南には到達しないと結論付けたのだった。
その結果、政府の津波対策は、岩手県を中心にして行なわれ、宮城県から茨城県に至る太平洋岸の津波対策はおろそかになった。実際、東日本大震災に伴う津波の被害は、岩手県から南にいくほど大きかった。東電の力によって政府の津波対策から外された福島原発は、見事に壊滅したのだった。
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