東京大空襲~ありがとうルメイさん

明治37年、鹿児島県川辺郡東加世田村に生まれた鮫島純也の少年時代は不運だった。網元の息子として生まれたものの、父は事業に失敗して純也が11歳の時に死んだ。遺された母親は、魚の行商をして3男6女を育てたが、3人の兄妹たちは次々と病死していった。
 尋常小学校を出た純也は、鹿児島市内の呉服店で働きながら、夜は実業学校に通った。苦労続きだった母親は16歳の時に死んだ。学校を出た純也は、朝鮮銀行のお茶くみをした後、大阪や鶴見の工場で働いた。
 しかし、純也は自らの運命を切り開く力と強運に恵まれていた。貧しいが向学心のあった純也は、代議士・岩切重雄の書生となり、日本大学法学部政治学科の夜学に通い始めた。
 昭和5年、無事に大学を出た純也は、岩切の紹介で立憲民政党の職員になるが、そこで同郷の議員、床次竹二郎の指導を得るようになった。純也は政治家への道を志しながら、立憲民政党の議員と交わるようになる。
 その中に、幹事長・小泉又次郎がいた。純也は又次郎の自宅に出入りするうちに、娘の芳江と恋に落ちた。両親のない事務職員にすぎない純也が、幹事長の娘と結婚できるわけがなかった。二人は駆け落ちし、東京青山の同潤会アパートで暮らし始めた。又次郎は怒った。新聞の尋ね人欄に「芳江、帰って来い」と、広告を出すほどだったが、若い二人の情熱はゆるがなかった。又次郎は、不満ながらも二人の結婚を認め、純也は晴れて又次郎の婿になった。小泉純也は、こうして政治家への道を切り開いた。

純也より2年遅れて、カーチス・エマーソン・ルメイは米国オハイオ州コロンバス市で生まれた。父親は放浪者で母親は教師、6人兄弟の長男だった。オハイオ州立大学在学中に陸軍予備役将校訓練課程を修了し、大学を中退して国境警備隊に入った。
空に憧れたルメイは、パイロットの道を選び、昭和5年、陸軍航空隊の少尉となった。戦闘機パイロットとして訓練に励んだ後、昭和12年、ルメイは爆撃隊へ移った。後に「鉄のロバ」と呼ばれ、冷酷非情な無差別爆撃で名を上げるルメイの軍人生活は順調に推移していった。

日本が中国と戦争を始めた昭和12年、純也は鹿児島から民政党公認で衆議院議員総選挙に立候補し、初当選した。4年後、太平洋戦争が始まり、純也は翼算選挙でも当選した。長男の純一郎を初めとして、3男2女に恵まれた。

ルメイの本領は、欧州戦線で発揮された。第二次世界大戦に参戦した米国の空の戦いに積極果敢に挑んだルメイは、南大西洋からアフリカへの空路を開き、北大西洋から英国への空路を開いた。
昭和17年、爆撃隊を組織して厳しい訓練を課した。B-17爆撃隊の隊列や爆撃技術を磨き続け、その成果は後のB-29の活躍で活かされた。ルメイは、英国で航空隊を指揮して大佐となり、ドイツに爆弾を落とし続けて准将に昇進した。
この頃、空爆命令を拒む搭乗員が増えていた。たとえ敵国、ドイツとはいえ、女子供を含む住民を無差別攻撃することに耐えられない若いパイロットたちが現れていたのだった。ルメイは、部下たちに言った。
「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドの上に眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を炎に包まれてママ、ママ、と泣き叫ぶ3歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。もし、君たちが正気を保ち、国家が君に望む任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」ルメイは、さらに続けた。
「これから全ての任務において自分が先陣の爆撃機に搭乗する。今後は出撃した全ての爆撃機が攻撃目標まで到達する。これを成し遂げないものは全員軍法会議にかけ処分する」
昭和19年、ルメイは初めてB-29に乗り込んだ。すべての操縦法を学び終えたルメイは、叫んだ。
「この飛行機で戦争に勝てるぞ」
ルメイは、爆撃集団司令官となり、英国および蒋介石率いる中華民国と共同で対日作戦に挑んだ。中華民国の首都、重慶から飛び立った爆撃機は、北九州市の八幡製鉄所を爆撃した。ルメイは、毛沢東と交渉して物資と引き換えに北支地方の気象状況を入手し、これを活用した。
 ルメイの精密爆撃技術は進化していき、10月25日、長崎県大村海軍航空廠を破壊しつくした。同じ頃に爆撃集団司令だったヘイウッド・ハンセルの指揮するB-29隊の爆弾命中率が14%だったのに対し、ルメイの部下たちは41%の成果を上げた。
 米国陸軍航空軍司令官、ヘンリー・アーノルドは、ルメイの爆撃技術を高く評価し、ハンセルと交代させた。ハンセルは、米軍が日本から奪い返したサイパン、テニアンに作られた大規模な航空基地から日本本土を爆撃していた。ハンセルは軍需工場を主に狙った。だが、ルメイは違った。
昭和20年、1月20日、第21爆撃集団司令としてサイパンに赴任したルメイは、東京大空襲の研究に着手した。
ルメイは、思い切った低空からの進入により、命中率を上げ、効率を上げることにした。ハンセル時代は昼間爆撃だったのを、夜間に切り替え、日本軍の迎撃、対空砲火による被害を減らすことにした。B-29から機銃、弾薬、機銃手を外して爆弾を200キロ増やした。編隊も単機直列に変えた。
搭乗員たちは恐怖した。東京上空へ低空で進入し、一列で飛ぶのだ。しかも、敵機と戦うための武器も省かれ、機体には可能な限りの爆弾を積み込んでいる。たとえ夜間といえども、爆撃のリスクは大幅に増えたのだった。しかし、ルメイは揺るがなかった。
3月10日、米国本土で研究された東京空襲の成果がすべて投入された。紙と木で作られた簡素な家が密集する東京の下町。北関東から乾燥した風が吹き下ろしてくる夜、地上数メートルで油に着火する焼夷弾をばら撒くのだ。効果は絶大だった。
爆撃隊の誘導機から連絡が入った。「まるで大草原の野火のように燃え広がっている。地上砲火は散発的。戦闘機の反撃なし」
3時間の空襲で、10万人以上の住民が殺され、100万人以上が焼け出され、25万戸の家が焼失した。
東京大空襲を完璧な成功に導いたルメイの、次の任務は極秘作戦だった。秘密工場で完成された二つの爆弾が、その偉大なる成果を世界に披露する日がやってきた。ルメイは、 原爆投下部隊、第509混成部隊を迎え入れ、広島と長崎へ原爆を投下させた。
日本との闘いが終わった後も、ルメイの活躍は続いた。ベルリンで指揮した後、朝鮮戦争に参加した。ルメイは朝鮮戦争停戦後、「我々は朝鮮の北でも南でも全ての都市を炎上させた。我々は100万以上の民間人を殺し、数百万人以上を家から追い払った」と語っている。

戦時中、翼賛政治家だった小泉純也は公職追放になっていたが、解除後に岸信介らと行動を共にした後、改進党に入り、昭和27年、義父の又次郎の後継者として神奈川県から立候補し、衆議院議員に返り咲いた。昭和30年、保守合同によって生まれた自民党では、党総務、副幹事長を経て、第2次鳩山一郎内閣の法務政務次官となり、昭和39年、第3次池田勇人内閣で防衛庁長官になった。

その前年、自衛隊統合幕僚会議が極秘に開かれていた。机上作戦演習「昭和38年度防衛図上研究」だった。38年の語呂合わせで、通称「三矢(みつや)研究」と呼ばれた。4ヶ月をかけ、田中義男陸将以下、52名の陸海空自衛隊幹部が参加したこの極秘シミュレーションは、第二次朝鮮戦争(朝鮮半島有事)を想定したものだった。
1、 韓国軍内で反乱が起き、在韓米軍が鎮圧出動し、日本国内も治安状況が悪化する。
2、 北朝鮮軍は、反乱部隊を支援し、戦争が始まる。
3、 自衛隊は米軍と共同行動するが、西日本が攻撃を受け、北日本でもソ連の脅威が増す。
4、 朝鮮半島では戦術核兵器が使用され、ソ連は北海道へ侵攻する。
5、 自衛隊はソ連部隊と交戦し、日本全土で核兵器が使用され、日本は焦土と化す。
6、 米軍は、同盟国日本の被害を受けて報復攻撃を始め、核攻撃によって中国、ソ連に勝利する。
 冷戦時代の最中、「非常時」が想定され、自衛隊は戦時体制の確立を研究した。軍法会議関連など87件の戦時諸法令も国会に提出成立させ、国家総動員態勢を整備する必要性があると想定された。

 昭和39年12月7日、米国空軍参謀総長の座にあったルメイは、日本の入間基地で浦茂航空幕僚長から勲一等旭日大綬章を授与された。3日前、佐藤栄作内閣の閣議で決定された授与だった。理由は、ルメイが日本の航空自衛隊育成に顕著な功績があったためとされた。推薦は、防衛庁長官、小泉純也と外務大臣、椎名悦三郎だった。
 ルメイの叙勲に対し、原水爆禁止団体と被爆者らから反対の声が上がったが、佐藤総理は言った。「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」
 小泉防衛庁長官も語った。「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」勲一等の授与は、天皇が直接手渡しする「親授」が通例になっているが、昭和天皇は拒んだ。

 昭和40年2月10日、衆議院予算委員会で、社会党・岡田春夫が「三矢研究」の存在を暴露し、政府に衝撃を与えた。マスコミと世論は核戦争の想定に慄然とした。松野頼三を小委員長とする「防衛図上研究問題に関する予算小委員会」が発足し、11回にわたって問題追及が行なわれた。
 国会で厳しく追及された小泉純也防衛庁長官は辞任した。

 ルメイはベトナム戦争時代、「北ベトナムを石器時代に戻してやる」と豪語して北爆を推進し、昭和40年、退役した。昭和43年、ベトナム戦争推進と人種差別的政策を掲げてアメリカ独立党から副大統領候補として立候補したが落選した。

 翌年の8月10日、小泉純也は急死した。長男、純一郎はその年の総選挙に出馬するが、落選した。

 それから45年後、特定秘密保護法を成立させ、消費税を3%上げた後も内閣支持率が50%を越えた第二次安倍晋三政権は、集団的自衛権容認を閣議決定した。閣議決定に伴って法整備も進められた。その中には、三矢研究で極秘に取り上げられたいくつかの法案も含まれている。

この記事へのコメント

2021年06月11日 22:28
小泉家って三代(純也、純一郎、新次郎)揃ってクズですやんw

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