大宮エリーと加藤登紀子(アエラ連載・大宮エリーの東大ふたり同窓会)

アエラ(22/6/13~6/27)誌上で脚本家・演出家・画家の大宮エリーが歌手の加藤登紀子と対談している。大宮エリーは99年東大薬学部卒。加藤登紀子は1943年、旧満州ハルピンで生まれ戦後の動乱期に一家で帰国した。東大在学中に歌手デビューし、68年に東大文学部卒。2人は32歳違い。連載の目的は「東大卒を隠して生きてきた大宮エリーさんが同窓生と語り、東大ってなんぼのもんかと考える」ことで、加藤登紀子が3人目。 大宮「うちの父は東大出なんですけど、私に『女は大学行かなくていい』って言ってました。結婚できなくなるから、みたいな」 加藤「男尊女卑ね」 大宮「はい、まさに。母はそんな父の『3歩下がって…』みたいな人で、それで私は男性に依存せずに生きたいと思ったんですね。植物の研究をしようと植物園の東大に入ったけど、父はめちゃめちゃ怒って」 加藤「うちの父も反対でしたよ」 大宮「本当ですか…」 加藤「うちは、お父ちゃんが反対したら余計に燃える家族で。母はあなたと同じで『男に付いて行ってはいけない』という考えの人だった」 大宮「かっこいい!!」 加藤「私は(都立)駒場高校に行ったのね」 大宮「東大の目の前ですね」 加藤「高校時代、少し学生運動をしてて、だんだん成績が下がってきちゃって。3年のときに先生から『このままじゃ東大は無理だ』ってこっぴどく言われ、私は、言い返したの。『高校は受験のためにある時間ではありません。私は今しかできないことをやっているんです』って。腹が立つから東大しか受けないって決めて。その日から勉強を始めました」 大宮「へー!!」 加藤「東大ではクラス50人中、女性は7人だけ。入学後に女子だけ集められて、先生から『東大女子は非常に就職が難しい』と言われたの。その頃は、会社はお茶くみの女性がほしいから、高卒が喜ばれたのね。女子大卒、短大卒もウエルカム。でもそれ以上のキャリアを持った女性の行く場所がなかった」 大宮「私も、就職活動では33社断わられましたから」 加藤「そうだったの。あとね、東大卒の結婚率は20%以下と言われて、先生が『君たちは断崖絶壁に来ているから未来に道はない』ってね。だから、私の中で就職しないことは結構早くから決めていました。就職試験は受けず、シャンソンのコンクールだけ受けて、ね」 大宮「部活とかしてました?」 加藤「演劇をしようと思って入学早々部室を探したんだけど、女子ボート部に勧誘されて、これがみんな美人だったの。先輩が『ボート部に1年入ると美人になる』って言って」 大宮「え、まさかボート部に?」 加藤「入ったわよ。男子ボート部の先輩がコーチしてくれて、すっごいすてきだった。でも、ボートを担ぐときは一切手伝わない。スポーツだから自分たちでやれって」 大宮「それでやめたとかじゃないですよね?(笑)」 加藤「結果的にはやめたの(笑)。私が入学した1962年には大管法(大学管理法)反対のデモがあったの。私、16歳で学生運動やってた人として有名だったから、勧誘がきて。『ボートなんかやってんじゃない』と、汚い学生寮に連れていかれ、学生運動に入っちゃって」 大宮「昔の仲間…(笑)」 加藤「例えば戦後、GHQに占領されて、そのときデモしたのは東大生」 大宮「なんかうれしいなあ。でも学生の反対運動が起こっても(60年に)安保は通っちゃった」 加藤「兄がそのとき『負けた』って言ったら、母が『勝つつもりだったの?相手は日本、しかもバックにアメリカがいる。こんなものは敗北には入らない。負け続けてもやらなきゃいけないんです』って。母の演説、私の心のシーンになりました」 大宮「参加した大管法は?」 加藤「あれ、勝ったんだと思う」 大宮「本当ですか。要するに学生の意見が国に聞き入れられた」 加藤「押し返した。安田講堂前のイチョウ並木が学生でいっぱいになった。その頃の学生のエネルギーはすごかった、それをあなたに伝えたい」 大宮「はい。熱気感じます」 加藤「その一方で、私、クラスの自治委員に立候補して演説したの。『皆さん、100%正しいなんていうことは世の中にありません。だから私は自分の行動が100%正しいなんて言わない。ちょっとでも正しいかもしれないことをわかるためには、行動しなきゃだめです。デモに行こう』って演説したわけ。そしたら誰も投票してくれなかった。対立候補の『私たちは絶対正しい』に負けた」 大宮「えー!」 加藤「これで東大生はインテリと呼べるのかと思いました。実存主義のサルトルやボーヴォワールの時代に、自分が絶対正しいみたいなことを言うなんて時代遅れじゃん、と。それで学生運動をやめました。そのあと演劇研究会に入って、演劇をやめた後は歌も歌うようになって」 大宮「きっかけは?」 加藤「父です。『女で東大に行って、そんなおもろない人生を送ってどうするねん』と言って、父がシャンソンコンクールに申し込んじゃった」 大宮「お父さんが才能を見抜いていたんですね」 加藤「もしかしたらね。歌手になって、ますます授業に出なくなり、6年目。55単位を1年で取らなきゃならず、大学に行くようになったら、所属事務所の社長のところへ、文部省(現文科学省)から連絡がきてね、『ミニスカートでキャンパスの中を歩くのをやめなさい』って」 大宮「うわー国から?びっくり!」 加藤「びっくりでしょう。デビューしたばかりで花柄のミニワンピとか着てたけど、それが人心を惑わせるんだって。ある先生は『君が来ると、僕もそわそわするから、単位はあげるから授業に来なくていい』って」 大宮「ずるいじゃないですか」 加藤「当時の東大は女性がまだ少なくて、男ばっかりの世界だったわね」 大宮「それで、卒業は?」 加藤「卒業試験もパスして、明日は卒業式という日に、学生たちが卒業式をボイコットすることになったの」 大宮「おときさんらしい最後ですね」 加藤「私は振り袖を着て卒業証書を抱えて女性週刊誌のグラビアを飾る予定だったの。でもボイコットのニュースを見て一晩悩んでね。それで、ジーパンをはいてデモをしに行った」 大宮「ドラマみたい!」 加藤「週刊誌は座りこみをしている私の写真を撮ってましたね。この卒業式ボイコットを機に闘争が激しくなっていって、その年、学生たちが安田講堂を占拠したの。私はたまたま6年かかって卒業したんだけど、東大の歴史の中で最もすごいことがあった1968年に卒業したことが、私が東大に行った一番の価値です」 大宮「東大がマグマのような時代にいたんですね」 加藤「今はもう東大はすっかり変わってしまったわね。駒場キャンパスに行ってびっくりするのは、本館(1号館)の前に盛り盛りとした木があるでしょ」 大宮「はい」 加藤「あれは、昔なかったの」 大宮「植えたんですか? 加藤「そうだよ。学生がそこに集まるのを恐れて植えたんだと思う」 大宮「なんと!」 加藤「安田講堂の前には美しい芝生とベンチがあるけど、あんなものはなかった。ただ何千人も集まれるだけの広場があった。今の人は全然気づかないけど、すっかり変わった」 大宮「へえ」 加藤「寮は個人部屋になりました。若い子が個人部屋がいいという流れもあると思うけど、昔みたいな8人部屋は危険だと。対談の最初に言った廃寮反対運動もそういう背景があったことなのね」 大宮「(私が在学中にあった廃寮反対運動は)壮大なドラマの最後の線香花火みないな感じだたんですね」 加藤「でも、駒寮の最後はかっこよかったよ。寮をつぶすから出ていきなさいといわれてね、不法にみんな住んでいた。素晴らしかった」 大宮「不法占拠自体が一つのデモだったんですよね。そのうち一人が友だちでした」 加藤「偉いわね。でも、掃除くらいしたらって(笑)」 大宮「激動の時代の東大にいらして、今の東大をどう思いますか」 加藤「安田講堂で学生が闘争したのはすごかったけど、大学側が警察に頼んで機動隊が入り、東大自身が自治をぶっつぶした。それは東大にとってマイナスだった。素晴らしい人たちの可能性を断ち切りました」 大宮「(東大卒の)父から全共闘の話を聞いていたので、東大って熱いところだとドキドキして入学したけど、ほのぼのとした感じでした」 加藤「最近では、反原発や、SEALDsを中心とした反安保法制への反対デモとかもあったけど、近頃のデモはおまわりさんに管理してもらっていて、びっくりしました。事前に申請した時間ぴったりに終わる。民主主義の権利の中で行動するという原則なんでしょうけど、私たちの感覚ではちょっと違うなって思う。昔は『物議を醸すこと』に命をかけたんだものね」 大宮「なるほど…」 加藤「香港やミャンマーでも、逮捕されるのがわかっているのにデモや抗議行動をする人たちがいる。あのころの学生運動も、今になってみると、あれでよかったのかと、悔しいような悲しいような気持ちになるけど、記憶に残る素晴らしい時間だったことは確か」 加藤登紀子は、ロシアの軍事侵攻によるウクライナ難民支援のためチャリティーアルバム「果てなき大地の上に」を22年5月に発売した。自主制作で、CDの売上全額を日本チェルノブイリ連帯基金に寄付するという。


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