真新・日本左翼史、戦後左派の源流1945―1960(池上彰、佐藤優・講談社現代新書)

この対談の企画は佐藤優から持ちあがった。佐藤優は高校2年から大学2年まで日本社会党を支える青年組織、社青同(日本社会主義青年同盟)の同盟員だった。佐藤優はコロナ禍後の日本社会にはさらに格差が広まり、下層労働者からの不満が膨れていくと考えている。彼らの不満が「格差是正」を訴える左翼政党への支持となり、政治が左傾化していくと予測している。その時、重要なのは戦後から現代までの左翼の変遷を正確に把握することだという。特に佐藤優が危惧しているのは、日本共産党が今も革命(現在の資本主義社会を倒し、社会主義社会を築く)を否定していない点だ。この点を曖昧にしたまま野党間の連合政権を想定するには無理があるという。この対談では日本共産党と旧日本社会党との違いを明らかにした上で、60年代の安保闘争後に生まれた新左翼についても論じ合っている。新左翼は、後に陰惨なテロを繰り返し、セクト同士の殺し合いに発展し、自滅していった。二人は今後現れる新たな左翼勢力が、このようなテロ集団と成り下がることがないように、過去を振り返ることが重要だと主張している。旧日本社会党の2重構造もわかりやすく解かれている。佐藤優は「『左翼』と『リベラル』が全然別の概念だということも理解されていません。本来はリベラル(自由主義者)といえば、むしろ左翼とは対立的な概念です」とも語っている。「左翼」は、鉄の規律によって厳しく統制され、それを受け入れるものであり、「リベラル」は個人の自由を尊重する思想だというのだ。
「第1章・戦後左派の巨人たち」では、終戦後の日本を占領したGHQによる左傾化政策が語られる。戦前の日本を改革するため、GHQは日本の「非軍事化」と「民主化」をめざした。当時、現在の府中刑務所に拘禁されていた16人の政治犯が釈放された。戦時中に弾圧されていた左翼は息を吹き返した。日本共産党の理論家となる野呂栄太郎、山田盛太郎や、日本社会党の中心となる向坂逸郎、山川均、堺利彦についても語られる。
「第2章・左派の躍進を支持した占領統治下の日本」では、当初左派の活動を促していたGHQが、東アジアの共産化を危惧し始め、日本の統治方針を大きく変えた時代について語り合っている。この頃生まれた日本社会党の結党当時についても語り合う。日本共産党は「所感派」と「国際派」へと分裂し、宮本賢治や志賀義男らの「国際派」が主導権を握っていく。
「第3章・社会党の拡大・分裂と『スターリン批判』の衝撃」では、「2・1ゼネスト」の失敗で国民的支持を失って失墜していく日本共産党と対照的に、躍進していく日本社会党の姿が語られる。当時、大多数の日本人に悲惨な戦争体験があった。戦争への忌避感、嫌悪感は強かった。また、日本人の社会・政治への関心は強く、52年に血のメーデー事件が起きて警官隊とデモ隊が衝突し、警官が銃を撃って死者まで出た。政府は破壊活動防止法を作り、公安調査庁が発足した。共産党の武装闘争によって国民の支持は離れ、平和革命をめざす社会党左派が大きく支持を伸ばす。55年には分裂していた共産党がまとまった反面、財界主導によって自由党と民主党がひとつとなって自由民主党が結成された。56年、ソ連のフルシチョフによるスターリン批判が世界に衝撃を与えた。神格化されていたスターリンが、実際には強大な権力による弾圧、多数の粛清が起きていたのだ。ソ連は指導に従わないハンガリーに軍事侵攻し、ソ連を理想化していた左派に衝撃を与えた。
「第4章・『新左翼』誕生の道程」では、スターリン批判・ハンガリー動乱によって共産主義国への理想が崩れたあと、日本の左翼が分裂する姿が語られる。ソ連への幻想が消えた後も、ソ連・中国からの影響が大きい共産党と社会党左派への不満が生じ、新左翼が生まれていく。一方、社会党は2重構造になっていく。社会党左派の思想的中心になったのが向坂逸郎らが指導していた社会主義協会だった。多くの社会党左派支持者たちは、社会主義協会から出される書籍で勉強した。その思想の下に集まったのが労働組合だった。社会党の国会議員たちは、その労働組合から選ばれた。池上彰は「だから社会党は非常に2重構造になっていた。社会党の国会議員はよくいえば温和な、どこにでもいるお父さんタイプ。でもその議員を支える秘書が社会主義協会から送り込まれている超インテリ、というパターンがよくあった」という。佐藤優は「社会主義協会が組み立ててくれた理論を表向きは尊重し、国民に対しては『与党自民党と断固戦う』というポーズを取るのだけれども、実際には国対委員長が与党の政治家たちと麻雀でもしながら、国民不在・党員不在のまま適当なところで手打ちをする。こういう、最終的には当局とのボス交(ボス交渉)で決めてしまうというのは国労でも長年行なわれていたやり方でもありましたが。いずれにしてもこういう構造がある中で、社会主義協会は理論的に鈍化していく一方で労働組合は労働貴族化していき、社会党は職業政治家の集団という色彩を強めていきました」。社会党の国会議員からは次第に緊張感が消えていったという。池上彰は「法案をめぐって与野党が揉めに揉めて国会が止まると、自社両党の国会対策委員が麻雀して、なぜか自民党議員が大負けしてそこから急に国会が動いたりする。当然そこで金のやり取りもあったでしょう」
また、ソ連崩壊によって社会主義国の衰退が明らかになった後も党名を守りぬいてきた日本共産党についても語り合っている。佐藤優は「1955年の6全協の頃から党を指導した宮本顕治という人物が、やはり卓越した指導者だったということです。この指導者が最初はソ連べったりであり、次に中国べったりではあったんだけど、やがて両方ともろくでもないということで独自の道を行くことに決めた。その過程で時にはナショナリズムをさんざんに煽りつつも、平和革命と暴力革命はそのどちらも放棄しない、敵の出方しだいで使い分けるのだというロジックを編み出して、巧みにカモフラージュしながら戦後の議会政治に足場を確保してきた」。1975年、共産党と公明党はお互いを敵視しない「創共協定」を結んだ。佐藤優は「『敵の出方』論のような理論を編み出し、必要とあれば創価学会とも手を取り合える宮本顕冶という傑出した指導者がもし出ていなければ、共産党がここまで拡大することはなかったのは間違いありません」宮本顕治は、ソ連崩壊後に大きな動揺が走った党員に対しても強い指導力を発揮した。「お前たちはソ連の崩壊に対して一切動揺する必要はないし、何も考えないでいい。今の党の立場を対外的に説明するための理屈は最高幹部が考える」と言ったという。2人の対談は次の巻へ続いていく。

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